7月23日、長崎大水害から43年~私たちが忘れてはいけない教訓~

2681文字 Blog, シリーズ『学び』

今日7月23日は、長崎にとって決して忘れることのできない日です。

1982年のこの日、長崎市を襲った記録的な豪雨により299人の尊い命が失われました。「7.23長崎大水害」と呼ばれるこの災害は、長崎だけでなく日本全国の防災対策を大きく変える転換点となりました。

私も妻もこの年に生まれており、義母はお腹の赤子を案じながら大洪水を目の当たりにしたという話も聞きました。
私はこの頃は宮崎で母のお腹の中です。

第二の故郷が長崎である私としても、この日に改めて調べてその教訓について考えてみたいと思います。

記録的な豪雨が襲った夜

1982年7月23日の夜、梅雨前線に伴う猛烈な積乱雲が長崎上空で停滞しました。長与町では時間雨量187mmという、現在でも日本記録として残る異常な雨量を記録。この数字がどれほど異常かというと、通常の大雨警報が時間雨量30-50mm程度で発表されることを考えれば、その凄まじさが分かります。

災害は午後8時30分に災害対策本部が設置された時点で本格化し、5時間にわたって集中的な豪雨が続きました。被害の規模は想像を絶するもので、長崎県内だけで299人が死亡・行方不明となり、住宅被害は全壊584棟、半壊954棟に上りました。特に印象的なのは、約20,000台もの自動車が流失・破損したことで、これは日本初の大規模な自動車水害として記録されています。

当時の報道では「350年の歴史を持つ眼鏡橋の石面が洗い流される」という象徴的な被害も伝えられ、長崎市民にとって馴染み深い風景が一夜にして変わってしまった衝撃は計り知れないものでした。犠牲者の約90%が洪水ではなく土砂災害によるものだったという点も、この災害の特徴を物語っています。

長崎の地形が災害を深刻化させた

長崎で仕事をしていると、この街の地形の特殊さを日々感じます。市街地は標高200-300mの山地に囲まれた狭い谷間に発達しており、坂道と階段の多い独特の景観を作り出しています。普段は美しい景色を提供してくれるこの地形が、1982年の災害では被害を深刻化させる要因となりました。

浦上川、中島川、大浦川が長崎港に注ぐ地点で合流する構造により、山間部からの急激な流出が一点に集中してしまったのです。さらに、1920年代から1930年代にかけての宅地開発により、急傾斜地に多数の住宅が建設されていました。住宅地の43%が車両でのアクセスが困難な急傾斜地に立地していたことが、救助活動の大きな障害となったそうです。

現在でも長崎の住宅地を見ると、狭い道路と急な階段でしかアクセスできない場所が数多くあります。当時と現在では建築基準や防災対策は格段に向上していますが、基本的な地形条件は変わりません。この地形的特性を理解した上で、私たちは防災意識を持ち続ける必要があります。

災害が変えた日本の防災システム

長崎大水害の最も重要な遺産の一つは、現在の防災システムの基礎を築いたことです。この災害を受けて、1983年には気象庁による「記録的短時間大雨情報」システムが創設されました。現在、テレビやスマートフォンで「記録的短時間大雨情報」の速報を目にすることがありますが、その原点は長崎の災害にあります。

また、この災害では避難勧告を受けた住民の実際の避難率が27.3%に留まったという事実も重要な教訓となりました。過去5回連続の洪水警報による「オオカミ少年効果」が影響したとされ、現在の避難情報システム設計では、この教訓が活かされています。「空振りを恐れず、見逃しを避ける」という現在の気象警報の考え方も、この経験から生まれたものです。

犠牲者の40%が車両関連の事故によるものだったことから、車での避難計画の重要性も全国的に認識されるようになりました。現在、各自治体で作成されている防災計画には、車両避難時の注意事項が詳細に記載されていますが、これも長崎の経験が反映されています。

記憶の継承と現代への警鐘

災害から40年以上が経過した今も、長崎では様々な形で記憶の継承が行われています。2022年の40周年では299本の竹灯籠が中島川沿いに並べられ、各犠牲者を表す追悼行事が行われました。市内各所には浸水レベルを示す水位標識が建物に取り付けられており、普段の生活の中でも災害の記憶に触れることができます。

現在は気候変動により、極端な気象現象がより頻繁に発生する可能性が指摘されています。時間雨量187mmという記録が43年経った今でも日本記録として残っていることは、当時の雨がいかに異常だったかを物語っていますが、将来的にはこの記録が更新される可能性も否定できません。

私たちができること

長崎で暮らし、働く私たちにとって、この災害の教訓を日常に活かすことが大切です。

まず、自分の住んでいる場所や働いている場所のハザードマップを確認すること。長崎市では詳細なハザードマップが公開されており、土砂災害警戒区域や浸水想定区域を知ることができます。スマートフォンの防災アプリを活用して、気象警報や避難情報を迅速に受け取れる体制を整えることも重要です。

長崎市のハザードマップ
https://www.city.nagasaki.lg.jp/life/6/49/197/

また、非常時の連絡方法や避難場所について家族や職場で話し合っておくこと。1982年の災害では通信手段の麻痺により、安否確認が困難になりました。現在は携帯電話やインターネットがありますが、これらも万能ではありません。複数の連絡手段を想定しておくことが大切です。

そして何より、「正常性バイアス」に陥らないこと。「まさか自分の住んでいる場所で」「これまで大丈夫だったから」という思い込みが、適切な避難行動を妨げることがあります。1982年の災害でも、避難率の低さにはこうした心理的要因が影響していました。

次世代への責任

長崎大水害を知らない世代も増えてきました。しかし、この災害から得られた教訓は決して過去のものではありません。現在の防災システムの基礎となったこの経験を、次の世代にも伝えていく責任が私たちにはあります。

今日という日を機会に、改めて防災について考え、家族や職場の仲間と話し合ってみてはいかがでしょうか。299人の尊い命の犠牲の上に築かれた現在の安全があることを忘れず、その教訓を未来に活かしていくことが、私たちにできる最良の追悼だと思います。

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この記事を書いた人
T.kawano

T.kawano

宮崎生まれ、宮崎&長崎育ち。長崎西高、長大経済学部卒。
在学中からWeb業に従事して約20年。人生の半分以上をWebに注いできました。

デザインからライティング、撮影、プログラミングまでやっており、専門家としてセミナーをしたり、Webでお困りの方の相談にも乗ってきました。

「話す・動く・作るWebディレクター」として活動中。
器用貧乏を逆手に取り、ITの力を活用して少数精鋭の組織で動いています。

三児と一猫の父。趣味は「お笑い」「アニメ(狭く深く)」「バドミントンとそれに必要なトレーニング」
「優しく」「仕事ができ」「面白い」人間を目指して日々精進中。