8月9日に思いをはせて~長崎から続く、静かで力強い平和への歩み~

3336文字 Blog, シリーズ『学び』

今日、8月9日は長崎に原爆が投下された日です。毎年この日になると、テレビでは平和記念式典の様子が放送され、静寂の中で手を合わせる人々の姿を目にします。80年という月日が流れた今でも、この日の重みは薄れることがありません。今回は、数字や歴史的事実を並べるのではなく、長崎の人々が歩んできた道のりに、静かに思いを馳せてみたいと思います。

あの日から始まった、小さな奇跡

1945年8月9日午前11時2分。その瞬間を境に、すべてが変わりました。26万人が暮らしていた長崎の街は、一瞬にして焼け野原となり、多くの尊い命が失われました。

しかし、その後に起こったことには、今でも心を動かされます。爆心地周辺は70年間は草木も生えないと言われていたにもかかわらず、なんと1か月後には緑の芽吹きが見られたのです。被爆者の方々は、この小さな緑の芽を見て「生きる希望をもらった」と語っておられます。

瓦礫の中から立ち上がった人々の姿も、本当に印象的です。お互いに助け合い、限られた資材を分け合いながら、小さな小屋から住まいを再建していきました。政府の支援を待つのではなく、自分たちの手で明日を切り開いていく。その姿には、人間の持つ本当の強さを感じます。

被爆者の方々の、静かで深い言葉

長崎を語る上で欠かすことができないのが、被爆者(ひばくしゃ)の方々の存在です。現在、被爆者の平均年齢は86歳を超え、直接体験を語れる方々は少なくなってきています。

でも、その方々の言葉には、怒りや恨みではなく、深い優しさと希望が込められています。

当時3歳だった田中さん(75歳)は、「あなたにはたった一つの人生しか与えられていないのだから、この瞬間を、この日を大切にして、人に優しく、自分にも優しくしてください」と語られています。

また、83歳の松尾さんは、「平和こそが私たちの最優先事項です」というシンプルでありながら、心に響く言葉を残されています。

こうした方々の言葉を聞いていると、人間の持つ寛容さや、困難を乗り越える力の大きさに改めて驚かされます。普通なら恨みや怒りを抱いてもおかしくない状況で、なぜこれほど温かい言葉を紡ぎ出せるのでしょうか。

子どもたちに託される想い

長崎の平和教育の取り組みも、とても心に残るものがあります。市内の小中学生3万2000人全員が、毎年8月9日に平和教育の授業を受けています。これは単なる形式的なものではなく、9年間をかけて継続的に学ぶプログラムになっています。

5年生ぐらいになると原爆資料館を見学し、中学生は被爆者の方々の証言を直接聞く機会を持ちます。子どもたちは「水を求めて亡くなった方々に」と、毎年お水を捧げる活動もしています。

特に印象的なのは、被爆者の方々のお孫さんやひ孫さんたちが「平和メッセンジャー」として活動していることです。高校生の佐々木さんは、「被爆者の声を直接聞ける最後の世代として、その真実を後世に伝えたい」と語っています。

こうした若い世代の取り組みを見ていると、平和への願いが確実に次の世代に受け継がれていることを感じます。

世界に開かれた平和の発信地

長崎は、世界100か国以上の代表が参加する平和記念式典を毎年開催しています。でも、これは政治的なメッセージを発信する場というよりも、人と人とが心でつながる場という印象を受けます。

午前11時2分になると、国籍や立場を超えてすべての人が同じ気持ちで手を合わせている光景は胸を打ちます。

また、長崎では78の大学と連携した平和教育プログラムを世界規模で展開しています。単に長崎の体験を伝えるだけでなく、それぞれの国や文化に合わせた平和教育を一緒に作り上げているのです。

国連の軍縮フェローシップの参加者も毎年長崎を訪れ、被爆者の方々との対話を通じて、平和の意味を深く考える機会を持っています。

広島とは違う、長崎らしい歩み

同じ被爆地である広島と比較されることも多い長崎ですが、それぞれに異なる特色があります。広島が政治的なメッセージや政策提言に重点を置くのに対し、長崎はより精神的・文化的なアプローチを大切にしているように感じます。

特に、長崎の深いキリスト教の歴史が、その特色を際立たせています。爆心地近くにあった浦上天主堂は、当時東洋最大の教会でした。そこで朝の祈りを捧げていた信者の方々も、多くが犠牲になりました。

でも、教会は再建され、今でもアンジェラスの鐘が毎月9日の午前11時2分に鳴り響いています。それは悲しみの鐘ではなく、希望と再生の鐘として街に響いているのです。

こうした宗教的・精神的な側面が、長崎の平和活動に独特の深みを与えているのかもしれません。

日常の中に息づく平和への想い

長崎を訪れて印象的なのは、平和に関する活動が特別なものではなく、日常の一部として自然に行われていることです。

平和公園には、世界各国から寄贈された平和を願う彫刻が点在しています。でも、そこは観光地である前に、地域の人々の憩いの場でもあります。子どもたちが遊び、お年寄りがベンチで語り合い、学生たちが勉強している。そんな日常の風景の中に、平和への願いが自然に溶け込んでいるのです。

また、被爆体験の継承も、大げさなものではなく、家族の中での語り継ぎとして行われています。おじいちゃんやおばあちゃんから孫へ、そしてひ孫へと、体験や想いが静かに伝えられていく。そうした家庭レベルでの継承が、長崎の平和教育の基盤になっているのだと思います。

2025年、80年目の夏に思うこと

今年は原爆投下から80年という節目の年です。直接体験された方々の多くが高齢になり、「語り部」としての活動を続けるのが困難になってきています。でも、だからこそ、これまで培われてきた「想いを伝える力」の重要性を改めて感じます。

昨年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。これは、被爆者の方々が80年近くにわたって続けてこられた地道な証言活動が、世界に認められたということです。

その根底にあるのは、「同じ苦しみを他の誰にも味わわせたくない」という純粋な想いです。復讐や報復ではなく、理解と共感を通じて平和を築いていこうとする姿勢には、本当に頭が下がります。

私たちにできること

長崎の人々の歩みを見ていると、平和というのは大きな政治的な運動だけで築かれるものではないということを感じます。むしろ、日々の小さな選択や行動の積み重ねが、平和な社会を作っていくのではないでしょうか。

隣人への思いやり、異なる意見への寛容さ、困っている人への支援。そうした当たり前のようでいて、実は難しいことを、長崎の人々は自然に実践してきました。

また、「記憶を継承する」ということも、特別なことではなく、家族や地域の中で語り継がれる物語として捉えることができそうです。おじいちゃんやおばあちゃんの体験談、家族の歴史、地域に伝わる話。そうしたものを大切にすることも、平和への想いを次の世代に伝える一つの方法なのかもしれません。

静かに続く希望の歩み

8月9日という日に思いを馳せながら、長崎の人々の歩みを辿ってみると、そこには絶望的な状況からでも希望を見つけ出す人間の力強さがありました。

瓦礫の中から芽吹いた緑の芽のように、どんなに厳しい状況でも、必ず新しい命や希望は生まれてくる。そして、その小さな希望を大切に育て、次の世代に手渡していく。長崎の人々が80年間続けてきたのは、まさにそうした「希望のリレー」だったのかもしれません。

今日という日が、私たちにとって平和の意味を改めて考える機会になればと思います。大きなことはできなくても、身近な人への優しさや、困難な状況にある人への共感から始められることがあるはずです。

長崎から響いてくるアンジェラスの鐘の音は、悲しみではなく、希望の音として今日も街に響いています。その音に耳を澄ませながら、私たちも平和への小さな一歩を踏み出していけたらいいですね (^^)

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この記事を書いた人
T.kawano

T.kawano

宮崎生まれ、宮崎&長崎育ち。長崎西高、長大経済学部卒。
在学中からWeb業に従事して約20年。人生の半分以上をWebに注いできました。

デザインからライティング、撮影、プログラミングまでやっており、専門家としてセミナーをしたり、Webでお困りの方の相談にも乗ってきました。

「話す・動く・作るWebディレクター」として活動中。
器用貧乏を逆手に取り、ITの力を活用して少数精鋭の組織で動いています。

三児と一猫の父。趣味は「お笑い」「アニメ(狭く深く)」「バドミントンとそれに必要なトレーニング」
「優しく」「仕事ができ」「面白い」人間を目指して日々精進中。